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    魂の苦悩

2003年09月03日

 概要

  絶望について考えた。


 この話は、犬養 道子著の「人間の大地」(中央公論社発行)に、載っている本当にあったお話です。「愛」の偉大さが、いかに尊いかを示しています。
 「ほぼ7万人(1979年12月19日の人数)収容のカオイダンのキャンプ第一セクション内の病者テント内に、ひとりの子がいた。ひとりぽっち。親は死んだか、殺されたか、はぐれたか。兄弟姉妹はいたのか死んだのか。一言も口にせず空をみつめたままの子。衰弱し切ったからだは熱帯性悪病の菌にとっての絶好の獲物であったから、その子は病気をいくつも持っていた。国際赤十字の医師団は、打てるだけの手を打ったのち、匙を投げた。「衰弱して死んでゆくしかのこっていない。可哀想に・・・」。子は薬も、流動食も、てんで受け付けなかったのである。幼ごころに「これ以上生きて何になる」の、絶望を深く感じていたのだろう。
 ピーターと呼ばれる、アメリカのヴォランティア青年が、その子のテントで働いていた。医者が匙を投げたそのときから、このピーターが子を抱いて坐った。特別の許可を得て(ヴォランティアは夕方五時半にキャンプを出る規則)夜も抱きつづけた。子の頬を撫で、接吻し、耳もとで子守歌を歌い、二日二晩、ピーターは用に立つまも惜しみ、全身を蚊に刺されても動かず、子を抱きつづけた。
 三日目に・・・・反応が出た。ピーターの眼をじっと見て、その子が笑った。
 「自分を愛してくれる人がいた。自分をだいじに思ってくれる人がいた。自分はだれにとってもどうでもいい存在ではなかった・・・・」。この意識と認識が、無表情の石のごとくに閉ざされていた子の顔と心を開かせた。
 ピーターは泣いた。よろこびと感謝のあまりに、泣きつつ勇気づけられて、食べ物と薬を子の口に持っていった。子は食べた!。絶望が希望に取って代わられたとき、子は食べた。薬も飲んだ。そして子は生きたのである。
 回復が確実なものとなった朝、私はセクション主任と一緒にその子を見に行った。
 「愛は食に優る。愛は薬に優る」主任は子を撫でつつ深い声で言った。
 「愛こそは最上の薬なのだ、食なのだ・・・・この人々の求めるものはそれなのだ・・・・。」
 朝まだき、とうに四十度に暑気が達し、山のかなたからは銃声が聞こえ、土埃のもうもうと吹きまくっていたカオイダンのあのときを、私は生涯忘れることがないだろう。

 無条件で自分を愛し、受け止めてくれる人がいる。自分のアイデンティティーを認めてくれる人がいる、この地上で必要な存在なのだということを認めてくれる人がいるということはどんなにその人に生きがいを与えることでしょう。

 いじめのもっとも典型的なものが無視ということです。小さい子どもが無視されるとまいってしまいます。だから愛の反対は憎しみではなくて無視で、それはもっとも愛から遠い姿です。誰からも必要とされない、自分でもアイデンティティーを確認できないような存在は人を死に追いやるということだと思われます。

 しかしこの難民テントの子にとってピーターはまさに自分の存在を認めてくれた、自分を愛してくれたはじめての人、そしてたったひとりの人だったのです。ピーターはその子が微笑んだのを見て喜びと感激の余り泣きました。そして勇気づけられて食べ物と薬をその子の口に持っていきました。その子はそれを受け入れました。絶望が希望に変えられた時、その子は食べたのです。薬を飲んだのです。生きたのです。「愛は食にまさる。愛だけが最高の手当と薬だ。愛−この人々が求めているのはそれなのだ……」と犬飼道子さんは語っておられます。

愛を与えてくれる人が近くに居ない場合は、自分の今もっているアイデンティティー、生活信条をふるいにかけるべきです。具体的には、絶望を想定してみましょう。

「この体の底が抜けてしまったような魂の苦悩」--絶望は、私の人生にとって、何らかの意味をもっているのか、自らと運命に問いかけましょう。
「人生において真に価値あるものは何か」を問い続けましょう。

 結果としては、「他者とのコミュニケーションがいかに重要」であり、「人は皆、他者によって生かされている存在なのだと実感すること」ということなのかも知れません。